2011年11月2日水曜日

震災で勘違いをしてしまった人々、そして返ってくるブーメランについて


震災当時、現地の映像はあまり見ないようにしていた。
報道記者でも芸術家でもないくせに、勝手に被災地に「思いを寄せ」た揚げ句に「心を痛めて」体調をくずし、少ないリソースでてんてこ舞いの医療機関に負担をおかけするようなことは避けたかった。
健康すぎる自分にできるせめてもの配慮だと思った。

地理的な距離や身分職業の立場を超えて世界の人々が瞬時につながることには、やはり弊害もあるんだなぁとその時初めて実感したのだった。

原発近くの人にTwitterで「体調は大丈夫?本当に?」と部外者が問い詰める様は、品のない芸能リポーターと変わらなく思えた。
「あなたが避難してくれないせいで私は不安なのよ!あなたのせいよ、責任とってよ!」と言いたいのだろうな、と思った。

ところで、市場競争に勝ち残ってきた商品には、自分を自分の価値以上に拡大していく仕組みを内包していることが多い。
ネズミ講はその極端な例なのだけど、もう少し真っ当な例では、それを持つこと自体がステータスを生む、高級ブランド品などになる。

これをSNSに当てはめると、実価値が世界中の人に瞬時につながれる道具であり、自己を拡大する仕組みが参加するだけで世界中の人が自分と対等な友達になれる錯覚となる。
Twitterを手にした人が現地に凸できる権利も同時に与えられたと錯覚してしまうのはむしろ、そういう錯覚を生むようなろくでもない物だからこそ、ここまで普及したんですよとも言えるのである。

書籍が普及する、再生機が普及して誰でも音楽や番組を視聴できる、そしてインターネットが普及する。こういったパラダイムシフトは、私の寿命の間にもう一回くらいは起こるような気がしてならない。
そしてその道具は、自分自身を世界に広めるための錯覚を含んでいるはずなのである。

私がいよいよばーさんになってからその道具を手にした時に、はたして、被災地に呪詛を送る人にならないで済むのか。

今現在、iOSとかAndroidとかの未経験のOSって面倒さが先に立って深入りしたくないんだけど、それは呪詛ばーさんの予兆に過ぎないんだろうなと思う。

 


0 件のコメント:

コメントを投稿